「変えてはいけないこと」「変わらなければいけないこと」【第一博愛】
私にとっての今は亡きヒーローの親友(現在も活躍中の京都大学iPS細胞研究所所長)が、引退してからも応援している元メジャーリーガーとつながった!
お気に入りの人と人がリンクしていくのは、単純に嬉しい。
ドジャーブルーが似合っていた、パイオニアへの尊敬と憧れは現在も変わらないし、彼らのストーリーが、いろんな場面で力を与えてくれたのは間違いない。
Lightノモマニアの私は、彼がまだドジャースにいた頃に設立した特定非営利活動法人「NOMOベースボールクラブ」(現在は代表理事)の本拠地:堺浜野球場へ、本物見たさに行った。
その堺浜野球場が阪神高速の建設用地に充てられたため、堺市から兵庫県豊岡市へ移転したのはチョットさみしかったが…
「僕が成城工高3年の時、グラウンドに社会人や大学のスカウトの方も来ていたんです。それで『あのフォームじゃウチはとらへん』とか『球種が少なすぎる』とか、いろいろ言って帰られるわけです。そのスカウトの言葉に監督は惑わされて、フォームを変えた方がいいんじゃないかとか、言われたんです。いくら弱い野球部だといっても監督の言うことは絶対なので困ったんですけど、その頃、同じ高校から新日鐵堺に入った7つ上のキャッチャーの先輩がグラウンドに来てくれて。最終的にその人が新日鐵堺に呼んでくれたんですけど、その先輩が『男だったらひとつくらいは周りに何を言われても変えんもんを持っててええんちゃうか』と言ってくれたんです。僕はその時、このフォームを絶対に変えんとこうと思ったんですよ」
時代を切り開いたトルネードは、じつは閉塞感の中から生まれたものだった。会う人、会う人にやめた方がいいと言われながら心の内で育てた自分だけの宝物、反骨。それはのちに青年に太平洋を飛び越えるだけの力を与えた。(原文ママ)
コロナ禍同様、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件と日本社会全体が沈みがちだった当時、
NOMOが投げる姿に自分を重ね、一喜一憂したのを覚えている。(野茂Tも着てた)
変化は厭わないがブレているのでは?と感じた時、日本球界からのバッシングを受け、逆風の中で海を渡った彼の言葉は胸に突き刺さる。
一方「変わらなければいけないこと」もたくさんある。
最近、A副主任と「チーム(スタッフ)の意識を変えていくための痛みと努力、その方法」について、何度か話をした。
その思いやリーダーとしての覚悟は本物か。
共感してくれる人を増やし、シェアド・リーダーシップという形態が取れるよう、微力ながら共闘する覚悟も伝えたつもりだ。